Study in ESTONIA

限りなく院生に近いニート

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目的化される海外

「エストニアに留学したいのですが」
というメッセージを、最近本当によく受けるようになった。
若いうちから、海外に目を向け、そこで経験や知識を蓄えるような野心的な若者は今の日本には求められる人材かもしれない。
目的化される海外
たくさんの相談やメッセージを受けるにつれ、このことを考えるようになった。
「エストニアに留学したいのですが」
という連絡を受けて、その理由、目的、何の情報が欲しいのか、etc...
こういったことを送ってきた人は、今のところ一人だけだった。
僕に質問をするにしても、漠然と
「エストニアに留学したいんですが」
「ITを学びたいのですが」
こういった余白の多い言葉を投げかけることに違和感がないのだろうか。
例えば、
数学の問題でわからないところを聞く場合、
先生に「数学のどこの問題がわからなくて、どこまでは自分で解いて..」
それでもわからなくて、結果的に質問するべきである。
「数学がわからないので教えてください」
と聞く人はいないだろう(たまにいる)
本質的には同じようなことをしていることになる。

「海外」という言葉は便利でかっこいい。
何かあれば、「いや海外ではこうだから」
って言えば、なんか達観したことを言ってるように聞こえるし、
「海外に行った」
という事実があれば、キラキラして一定数からはちやほやされるし、
人生映えもするだろう。
じゃあ本当にそんなことのためにお金も時間も費やす価値があるのか。
人生映えを目的としているなら、それで良いだろう。
むしろ素直で好感すら湧く。
しかし、ほとんどの場合、自分を変えたい、海外で自分を見つけたい、
海外に行けば何かすごい経験ができる、etc...
そういった理由がほとんどではないか。
「変わりたい」と願うモラトリアムの日々の中に、終止符を打つ。
そして、目的性がなく、共同性だけのぬくぬくした温かい居場所を無意識に探してしまっている。
曖昧な「やりたいこと」を見つけるために、世界へ飛び出そうとする。
「世界」は「世界」以上で以下でもないことが多い。
具体的な目的を果たす(例えば、この研究室に入りたい、この先生の元で学びたいなど)
ことよりも、
「世界に飛び立った」
という事実の方が大事になってしまっている。
そして本人はそれに気づいておらず、
むしろ人とは違うすごいことを果たした気になっている。
これをグローバルと呼ぶのは野暮ではないだろうか。
世界一周や、発展途上国の地雷撤去のボランティアなども同じだ。
その活動を目的にしているように見せて、
そこでの消費が目的になってしまう。
途上国の子供たちの写真なんか載せれば、さぞ自慢になるだろう。

アフリカで会社経営をしている友人から聞いた話だ。
彼は一時日本からインターンの学生を受け入れていることもあったらしい。
「アフリカでインターンをした」なんていかにもすごいことをした気になれそうではないか。
しかし、その時実際に現地にインターンをしにきた学生は、英語も話せない上に、
アフリカの過酷な環境や治安を前にやる気も損失してしまったという。
指導してくれていた現地人スタッフからも、
何もできないから仕事の邪魔だ。
と言われ、結局数週間で帰らされてしまったという。
このように海外インターンも同じように自分の消費のためになってしまっていることも多い。

個人が悪いのか、社会が悪いのか。
海外プログラムや、そういう意識高い学生の志をお金にしてるだけのツアーも日本には多く存在する。
海外に行けば人生が変わる。
就活に有利だ。
そういうケーキの上に乗ってるサンタクロースのように甘い看板に惑わされてしまう。
もしも、本当はかっこつけのための海外なのに、外目を気にして何か綺麗な理由を並べているだけならば、
今すぐそんな海外進出はやめて、ジムに行ってめちゃくちゃ筋トレした方がいい。
その方が圧倒的に自分を変えることができる。
付け焼き刃で書き込もうとしても、無駄である。
海外に行けば答えが見つかるとも思えない。
そんな短絡的で誰にでも当てはまるような方程式は、人生にはないでしょう。
もっと突き抜けないと。

LIFE IN ESTONIA

制作事例1

エストニアで暇人生活
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